2024.08.06

”誰一人置き去りにしない“をみんなで考える

”誰一人置き去りにしない“をみんなで考える
2023年1月23日(月)、CareerMap主催のオンラインセミナー「”誰一人置き去りにしない“をみんなで考える」を開催。今、教育界で注目の活躍をされている工藤勇一氏と塩瀬隆之氏のスペシャルトークをお届けしました。当日は、専門学校の教職員の方々だけでなく、小中学校の教職員の方や、教育関係者の方にもご視聴もいただき、多くの反響をいただいております。ここでは、そのスペシャルトークの内容を詳細レポートします!

▼工藤勇一氏プロフィール
横浜創英中学・高等学校 校長 1960年、山形県鶴岡市生まれ。
東京理科大学理学部応用数学科卒。 山形県公立中学校教員、東京都公立中学校教員、東京都教育委員会、目黒区教育委員会、新宿区教育委員会教育指導課長などを経て、2014年から千代田区立麹町中学校長。 麹町中学校では宿題廃止・定期テスト廃 止・固定担任制廃止などの教育改革を実行。 初の著書『学校の「当たり前」をやめた。生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革』(時事通信社)は10万部を超えるベストセラーに。最新著書に『子どもたちに民主主義を教えよう』(苫野一徳氏との対談/あさま社)。

▼塩瀬隆之氏プロフィール
京都大学総合博物館
准教授
京都大学工学研究科精密工学専攻修了。機械学習による熟練技能伝承に関する研究で博士(工学)。文部科学省中央教育審議会委員(数理探究、高等学校教育)、経済産業省産業構造審議会イノベーション小委員会委員、文化審議会博物館部会WG委員、文化庁伝統工芸用具・原材料調査委員、大阪・関西万博日本館基本構想有識者座長などを歴任。 著書に「インクルーシブデザイン」「科学技術Xの謎」「問いのデザイン」など。

【MEMO】
 今回のテーマ、「誰一人置き去りにしない」というのは、SDGsの前文の中にある言葉で、工藤氏が「最高の目標。最初に考えた人は天才的だ」と評する。工藤氏は教員生活40年を通して、子どもたちに主体的に自己決定できる力をつけさせたいと願い、実践してきた。その際に、必ず必要としてきたのが「最上位目標」。これは工藤氏の造語ともいえるフレーズで、「誰もがOKといえる、最も上位の目標」を指す。「最上位目標」を持ち、常にそれを意識し、感情をコントロールして対話することで、たとえ異なるいろんな意見があったとしても「誰もが合意できる結果」にたどり着くことができるという。

「最上位目標」=「みんながOKできる目標」を探すことで、
「誰一人置き去りにしない」は実現できます。(工藤氏)

 今回のテーマである「誰一人置き去りにしない」って、可能だと思いますか? これ、「できないでしょ」「理想じゃないの?」って言う人が多い。なぜできないと言われるかというと、価値観も立場も背景も全然違う人がいる中で、誰一人置き去りにしないって、ある意味絶対できないと、みんな経験で知っているからです。
 例えば、対立が起きているとします。そこで「誰一人置き去りにしない」が実現するためには、まず対立を3つに分解します。
 ひとつは、「感情・感性の的な対立」。感情や感性はひとりひとり全く違うものだから、全員が合意することはできません。そして同じ理由で、2つめ「価値観・感性・考え方の対立」も、全員合意できません。つまり「誰一人置き去りにしない」ことは不可能です。 では、何だったら「誰一人置き去りにしない」ことが可能か?
 「誰一人置き去りにしない」が実現できるのは、「利害の対立」においてだけです。これを切り分けることができないから、「誰一人置き去りにしない」は解決できないと思われてしまうんです。

【MEMO】
 例として工藤氏が挙げたのが、麹町中の制服や校則を変えた時の話。実は麹町中、非常に厳しい校則がたくさんある学校だったが、校則について考える際に「誰一人置き去りにしない」という考え方が、生徒や教員、保護者たちに浸透していった結果、どんどん厳しい制限がなくなっていったのだという。

(工藤氏)
 制服を変えたいという要望が出てきた時、最上位目標の設定は私が行いました。それが「誰一人置き去りにしない」でした。そして最初に言ったのは「デザイン性について“誰一人置き去りにしない”は無理だから、デザイン性の議論は後回しにしてね」ってこと。もともと制服を変えたいと言ってきた理由は、制服のデザインが気に入らなかったから、違和感あったと思います。でもデザインは好き嫌いがあって、ひとりひとりの感性。それを誰一人置き去りにしないためには、もう自由(制服撤廃)しかないから、『制服を変える』という話し合いも必要ないんです。もし、生徒と保護者が『制服をなくしたい』と言ってきていたら、すぐに『どうぞ』だったんですけど、そうではなくて『制服を変えたい』と言われたので、僕からは3つ具体的にお願いをしました。それは、①今よりも高くならないこと(できれば安くなること)、②機能性として、誰一人困らない・窮屈じゃない・着づらくないものであること、③多数決でもアンケートでも決めないこと。最初の2つは、最上位目標である「誰一人置き去りにしない」が実現できることなので、優先順位として提示しました。必ず全員が合意できる。そして3つめは、多数決という手法は、少数の人を切り捨てる手法だから、先に除外しました。

【MEMO】
 この制服改革は、3年後に「基本、私服OK。着たい人のために、数種類の選べる標準服を作る」ということで決着しました。生徒と保護者主導のこのこの改革が実現にたどり着けた背景には、「対話の風土醸成」「最上位目標のコントロール」「PTAの尽力」「期日を設けないこと」といった、いくつものポイントがあります。詳しくはぜひ工藤先生の著書をお読みください。

(塩瀬氏)
  小学校でインクルーシブデザインのワークショップを行ったことがあります。男子女子2名ずつの班が、半身まひの方の話を聞いて、困っていることを解決する製品を提案するというワークです。男子2人は、出先のスリッパをはくと転びそうになるという話から、出先に持ち運べる「転ばない工夫をしたスリッパ」を提案。女子2人は、旅行先のお風呂で体が洗いづらいという話から、旅先で使える「工夫をしたタオル」を提案しました。どちらも良い案なんですが、彼・彼女らが困ったのが「話し合ってどちらかひとつに決めるように」と先生に言われてしまったこと。話し合いを重ねても結論が出ず、半泣きで私に仲裁を求めてきました。私は、ひとつにする必要はないし、どうしてもひとつにするなら、いっそ両方をまとめて「おでかけセット」にしてもいいのでは?と提案。すると、もっといろんな課題を解決できるグッズをそのリュックに入れて「おでかけリュック」という第三の解決策に落ち着きました。その時感じたことは、「意見が対立した場合に、話し合いによって、どちらかひとつの答えにすること」だけが目的になってしまって手段と逆転してしまっている学校や先生があるのではないか?という疑問でした。
 工藤先生の著書には、何度も「私たちは手段が目的化しやすい」という言葉が出てきます。 だから最上位目標を設定することが本当に大切なことだと考えるのですが、そういう考え方をしていないと、現場では力のかけ具合が相当難しいと思います。どうすればその最上位目標を決めるという習慣ができるようになるんですか?

【MEMO】
 ここで工藤氏は、「子どもたちに民主主義を教えよう」という近著を共に執筆した教育哲学者・苫野一徳氏の言葉を借りて、民主主義の背景を語った。
 苫野氏によると、「誰一人置き去りにしない」という考え方をもとに、ヨーロッパで民主主義が生まれてきたが、そこに至るまでに、ヨーロッパでは1万年も2万年も戦争が絶えなかったのだという。さんざん戦争した挙句、第二次世界大戦という近代兵器が進化した戦争で多くの人命を失い、「戦争はもうしたくない」という思いから、平和と民主主義を強く求めるようになったのだという。「自分の国が、自分の国が」と言ってたら争いはなくならない。だから争いをなくすために、自国の利益だけを考えるとリスクが多いことでも行ってきた。関税をなくしたり、人の移動を自由にするEUを作ってしまおうなんていう、日本には到底できない決断を、意志を持って行っているのがヨーロッパだという。著書の中では、ロシアのウクライナ侵攻とそれをとりまくヨーロッパの動きにも触れ、それぞれが自律的に動きながらも、平和という最上位のところで固く手を組んでいることを再認識させられた、と述べている。

(工藤氏)
 日本は、そもそも「おかみ任せ」というか、政府が良きに計らってくれるという考えでやってきたから、それぞれが主体的に最上位目標を探し出す訓練をしてない。だから、最上位目標という考え方そのものを理解することも最初は本当に難しい。
 民主的な社会を作るためには、ふたつの訓練が必要です。一つ目は、最上位目標を、対話を通して見つけていく作業。全員がOKという目標だから、これは最高に難しい。でも最上位目標をみんながOKって心から思うことができたら、二つ目の訓練は簡単で、それは「今やってることって、最上位目標に照らして実現する方法?」って確認をし続けることだけなんですよね。手段を見つけるのはそんなに難しくない。
 麹町中でも横浜創英でも、最初は教員も見つけられないから、僕が最上位目標を設定していました。すると、子どもたちはどんどん最上位目標を「意識」するようになる。そして実践していく中で「最上位目標って、すごい目標だ」と気づいていく。そのプロセスを学校のなかで見つけられるようにしたのが麹町中です。それを繰り返して訓練していくことで、徐々に、教員も生徒も気づきはじめて、最上位目標を設定できるようになります。

【MEMO】
 麹町中の体育祭は、工藤氏が校長になった初年度から「生徒全員が心から楽しめる体育祭にしてください」という最上位目標を設定して、運営を生徒に渡したものだという。中身は全部生徒が決めるが、氏は初年度から学級対抗も全員リレーもやめたかった。最初の生徒会のメンバーがこれを課題として真剣に向き合って対話を重ねていたが廃止には至らず、そのまま3年間、全員リレーは続いた。4年目の春、また生徒会が全員リレーの可否についてアンケートをとったという。アンケートの結果は8割が賛成、1割がどちらでも良い、1割が反対。「まあ、これでまた今年も実行になるんだろう」と思っていたら、生徒たちが「1割が反対しているから、これ、全員が楽しめないよね」と気づいて、なんと廃止になったのだという。生徒たちは、先輩が議論して引き継いだものを、また議論してアップデートして引き継いで、を繰り返して、4年で成長していたのだ。

 そして、それを機に、保護者にも変化が起きたのだという。感情的な対立を繰り返し、派閥ができてトラブルだらけだった保護者たちが、「子どもたちができることを、自分たちができないでどうする」という雰囲気になったのだ。改革を委ねて、どれも子どもたちは3年くらいかかった。そして子どもたちの2年後くらいに、保護者は本格的に変わってきた感じだったという。

(塩瀬氏)
麹町中では、体育祭や校則、合唱コンクール、音楽鑑賞会と様々な改革をしているが、どれも3年4年とかかっていますよね。工藤先生ご自身は待てると思うんですが、当事者である生徒たち自身は、卒業というタイムリミットがある中で、在学期間よりも長い変革に要する時間をどう感じてるんでしょう?先輩後輩で、その想いってうまく引き継げるものですか?

(工藤氏)
  今の学校は、実は学年の分断がすごい。中学校は特に。学年主任が中心となって「学年団」としてそれぞれ教育目標が違う。価値観や成功体験に強いこだわりがあって、自分の受け持つ学年と、他の学年と分断させている。僕は教員になった時から「くだらない」って思ってきた。教育として本当の目的ってなんだろうと追究していく集団であるべきなのに、視野が狭いんです。それを改善するためには、子どもたちの縦の関係をどう作るかが大切で、理念や概念を言語化してきちっと引き継いでいけるようにしなくてはならない。そのためには、まず学年分断から無くさなくてはなりませんでした。
 最初の一年は、まずは教員に対して当事者意識の植え付けから開始。職員室の中で、「学校を変えていくのは先生たち自身だから、課題を挙げようよ」ということからスタートしたんです。その際に、目標の上位下位という概念から教えていった。合唱コンクールにしても体育祭にしても、私自身には最初から完成イメージはあるけれど、いきなりやると、感情的な対立があるんです。自分の価値観を壊されたといって怒る教員もいる。「団結しようぜ」みたいな洗脳をされている生徒も混乱する。ハレーションが起きるんです。どんなに良い理想であったとしてもハレーションがあると、不幸になる人が出る。だからハレーションが起きないような上手なコントロールの方法を、戦略的にソフトランディングを行う必要がありますね。

【MEMO】
  教育委員会や学校に招かれて学校改革等に関わることが多いという塩瀬氏の、「学校はなぜあんなに改革を急ぐのか」という疑問に、工藤氏は制度的な問題もあると答えた。「東京都は校長の任期が5年あるが、他は2.3年のところが多いので、それが急ぐ理由でもある」という。工藤氏は麹町で校長になる時54歳。定年まで6年だったので、その6年で計画を立てた。任期が長いからこその余裕で、最初の1年は課題の洗い出しだけして洗い出した340項目の課題から170項目解決したのだという。さすがに170解決すると、朝の打合せが1分で終わるとか、会議が短くなるとか、先生の仕事が変わる。自分たちが関わって、「変わっていく」という体験を先生にも積んでもらったからこそ、最上位目標がお飾りではなくなり改革が進んだという。

「学校に来ないと学ばせない」って、
それってほんとに義務教育なの?って、思いませんか?(塩瀬氏)

【MEMO】
 ここで、塩瀬氏が関わる、岐阜県の公立不登校特例校についてご紹介します。岐阜市の「教育の未来を考える」審議会に参加していた氏は、廃校になった小学校を不登校特例校として利用しようと教育委員会が動き出した時に、「不登校だから仕方なく行く学校ではなく、この学校に行きたいと思ってもらえるような、理想的な学校にしたい」という志を聞く。教育長から、理想の学校は?と問われて即答したのが、絵本の「バーバパパのがっこう」だった。お話はこうだ。学級崩壊をしている学校を、市長が何とかしようと警察官まで連れてきて、いうことを聞かない子を取り締まる態度を見せるほどの管理教育だったという。見かねたバーバパパファミリーが子どもたちを森に連れ出すと、森の中でバーバパパファミリーの個性あふれる家族が子どもたちのそれぞれ得意なことをきっかけにいきいきと学び始める相手を務める。子どもたちが興味関心をもったところに元の学校の先生が戻ってきて数学などを教え始めるとみるみる学んでいく。その姿をみた保護者や市長たちも、この新しい学校のすごさを理解し、このままここで学ばせたいと要望する…。この「バーバパパのがっこう」はそのまま草潤中設立のイメージコンセプトとなり、市や教育委員会をはじめ各方面が尽力・協力して、2021年4月に開校を迎えた。

(塩瀬氏)
 「バーバパパのがっこう」を実現するにあたり、教育委員会、生徒、デザイナーに参加してもらってワークショップをしました。生徒役はついこのあいだまで中学生だった高校生にお願いしました。「どうしたら『行くな!』と止められても行きたくなるような学校になるか」を考えてもらったのです。その時に、授業・教室・時間割・職員という学校の機能のほとんどが全部生徒が決めるのではなく、先生が決めてしまっている。生徒が自分で考えて決める生徒自身の居場所がないんじゃないかと。
じゃあ、居場所を作ろうよ、となりました。
 ~本を読みたいと思ったときに、背筋を伸ばした姿勢よい座り方だけでなく寝転がってもいいじゃないか。家では寝転がって本を読む大人だっているのだから、図書室にはハンモックがあってもいい。授業もipadで同時配信すれば教室だけじゃなくて、音楽室でも家でもどこで受けてもいいようになる。遅刻も欠席も考え方次第。セルフデザインという自分で内容を考えられる授業があると、好きな内容なので月曜の1限も学校に行きたくなる。お弁当は職員室や校長室でも食べていい。むしろいつも楽しく行って喋る場所だからこそ、いざ困ったという時に素直に助けてと言えるのではないか。だから、職員室も校長室も、いつでも行っていい場所にしよう!~
 教育委員会が文科省と折衝する中で、いろいろな制限もあったはずですが、この理想を守ろうとしっかりと落としどころを見つけてくださってやっと開校できた学校です。教育先進国の北欧ではなく、日本の真ん中のふつうの公立学校でこれが実現できたということに、本当に大きな意味があるんです。あれはフィンランドだから、オランダだから、素晴らしいけど真似できないという言い訳ができないはず。
 草潤中学についてインタビューを受けると必ず、子どもたちはもう一度学校に行きたいと思えるようになるかと聞かれるがそれに違和感を覚える。不登校の子どもたちのチャレンジと言う風に言われるから。
 でも私は、逆だと思っているんです。そもそも、学びはどこでもいつでもできるものなのに、8時半から15時半まで学校にいないと教えてもらえないって、そもそも義務教育として正しいのか?と。いつでもどこでも学びたいと思えば学べるけど、学校に行ったら、友達もいて、新しい学びがあって、もっと楽しい!と思ってもらえるかどうか。そういう場所だと信頼されていないから、学校に行かないという選択肢が大きくなってしまうのです。もう一度学校を信頼してもらうための、これは学校のチャレンジなんです!とインタビューなどではお伝えするようにしています。

【MEMO】
 草潤中では、担任も選べる選択制になっているが、これについて、子どもたちを甘やかすのはダメだと、とネットで批判する人がたちがいたという。社会に出るとうまくいかない人とでも我慢しないといけないんだからと。塩瀬氏は、ネットでの批判にも一つずつこたえ、またインタビューの時に受けた同様の質問でも、自分の考えを伝えてきたという。それは大人の場合は、うまくいかない相手がいても他にもどこかに理解者がいることを信じているからその場は我慢できるけれど、はじめて家庭から外に出て学校という空間に閉じ込められた子どもたちにとっては、学校が世界のすべてです。そこで人間関係がうまくいかなかったら自分を責めてしまうことになる。だったら、まず100%自分を受け入れてくれると信頼できる相手を選択できる方がいいじゃないかと。
 いままでの学校では、生徒自身が「選ぶ」チャンスが極端に少ない。「自分たちの学びを選び取る」という体験ができれば、社会の中で溝があったとしても、自分たちには埋めることができると信じてもらえるはずだからだ。誰かが決めたルールをただ守らせる教育ではなく、ルールの意味を考え、ルールを変える立場に自分たちがいることを自覚できるような教育が必要だと訴える。

もしかしたら、あと10年くらいで
日本の教育はガラっと変わっているかも(工藤氏)

(工藤氏)
 私が今いる横浜創英中高には、勉強しない自由があります(笑)でも、人の勉強を邪魔する自由はないからね。それが横浜創英だよ。と伝えています。
 数学は、授業をしないスタイルで行っています。何して学んでも良いとしているので、1年生の1学期は、必ず授業中にゲームをしている子がいます。叱れば、たぶんイヤイヤ勉強します。子どもたちはみんな、本当は自分がやるべきことをやっていないことに罪悪感があるんだけど、対立する相手(教師)がいると、正当化する。反発するものがあれば自分を正当化して、文句ばかり言うようになんですよね。だから私たちは叱りません。放っておくと、だんだん数人でゲームをして騒いだりする生徒も現れます。そこで初めて叱ります。君に、人の勉強は邪魔する自由はないと伝えるんです。それを繰り返していると、どんなに遊んでいた子でも3学期になると、「そろそろやばい」と勉強をし始めます。この1年間は、いわばリハビリ期間です。
 教育の2大目標のうちのひとつは、子どもの主体性・自律性・可能性を引き上げること。そのために全員に「自己決定」というリハビリをして、自立型に変えていく訓練期間をもうけているんです。2大目標の2つ目は、対立が起きた時に、利害の対立に注目して、感情のコントロールをして、自分の考えを修正をして、対話して合意できるようにすること。つまり、民主主義を教えるということですね。この2つの教育によって、よりよい未来の担い手が育っていくはずなんです。それを教えようとする教師員たちも、今は頭で考えて教育システムの中で教えているけれど、あと10年もすれば、これを教えられた子どもたちが先生になって戻ってくる。2大教育が染みついている彼らが教えれば、新たなステージに進める。今は過渡期で苦しいと思うけれど、ここから先、日本社会は一気に成熟していくと信じているんですよね。

生徒にも、先生にも、
「学び」の選択肢をもっと持ってほしい(塩瀬氏)

(塩瀬氏)
 教育現場でSDGsが語られる時に、環境や地球温暖化の話に偏っている印象がありませんか?平和や、ひとりひとりの人権の話とかをもっと考えると良いですよね。SDGsの中で教育については、貧困と教育、貧困層にどう教育を届けるかっていう話になるけれど、その前に「自分の手元にある教育ってどんなものだろう」という、自分とのかかわりを考える機会が少ない。本当は学校のなかで、自分は何を学ぶのかっていうのを問いとして建てた方が良いのかも知れません。今、入学して最初に、自分の学び方を学ぶというのを広げていけないかと考えています。

【MEMO】
 「理想の授業」について考えるために、先生と生徒それぞれが「授業のクレド」をつくるワークショップを行った塩瀬氏が、面白い話をしてくれた。ある歴史の先生、実は江戸時代が好きじゃないと告白した。すると生徒たちが「言ってくれたらいいのに!先生にも好き嫌いあっていいのに!」と。その時に思ったのは、授業の作り方と受け方をお互いに考える時間を持って、共有してもいいんじゃないかということ。先生ばかりが「こうしろ」と言うのではなく、生徒も先生に「こうしてほしい」と言ってもいい。学校に行きたくないと思ったら、学校に行かなくても学べるってことも、学校で学べばいいと言う。
  工藤氏の高校でも、ある時2年生の生徒が退学届けを持ってきた。聞くと、大検を全て取り終えたので、これから卒業までは好きなことをして、大学受験をするという。思わず、すごいなと言ったそうだ。学び方はそれぞれ選べるもの。その選択肢を先生も生徒も、もっと知ってほしいという。

★質疑応答★

問1)
不登校の問題や発達に障害がある彼らに対して、全員に時間をかけられないけどかけないといけない。どのように解決できそうだと思いますか?

(工藤氏)
 教員は本当に忙しく、ブラック企業と言われて希望者も減っている。横浜創英では、教員の仕事量を減らして、子どもを自立型にさせるために、自己決定をさせることに力をいれています。2年後の完成を目指してやっていることがあって、今の指導要領にのっとった上で、学年も学級もばらしたようなことをすべての教科でできるようにパズルを組んでいるんです。今は、数学と英語でやっていますが、これを全教科にと考えています。数学は教えないことができる特殊な教科です。体系化されている古典数学なので、つまづいたところに自分で戻ればできる。教員はその支援をするだけなので、授業の準備が減るんです。
 英語は4技能が学べる仕組みが必要ですが、横浜創英がやっているのは、教室を3つにわけて、ひとつは先生が文法を教える教室。もうひとつはAIやデジタル、もちろんYouTubeとかも使ってよくて、友達と相談してもいいから、課題に対して自分で勉強するという教室。もうひとつはディスカッションみたいにスピーキングをたくさん練習できる教室。少なくとも3コースが毎回選べる。すると、これも先生が授業を準備しているのは1コースだけ。つまり授業の準備時間が減るんですね。それを全教科に展開します。 社会や理科はおそらく、生徒が学習したことを生徒に向かって授業する反転授業になる。それを教員が支援することになります。
 理科や社会は、自然科学や社会科学を学ぶ授業だから、仮説を立てて、理科なら実験実証を通して証明していく。社会科学ならデータを積み上げて事象の検証をして科学的思考を高めていく。大学受験に勝てばいいわけじゃないから、ディスカッションや教員からの質問が大事だけど、授業準備の方法が全く変わります。
 今は、受け身である生徒たちに主体的に授業を受けさせるために、わかりやすい授業をしなくてはならない。受け身である学生に主体的に学習させるということは、そもそも矛盾しているんです。一部、ものすごい才能をもった先生は、資料も授業も素晴らしく面白いものができる。でも普通の先生たちは面白くないと言われてしまう。与えられることになれた人間は、主体的に取り組めない子供になっていってしまう。それなのに、教員は必死にそれに応えようとして疲弊していく。ますます受け身で文句ばっかりいう子どもたちが増え、先生たちは文句に付き合ってしまう…。一番最初のボタンの掛け違いを直さないと、この悪循環は止められません。今現在、支援しないと学習できなくなっている子どもたちの支援技術をあげていくことと、教育を本質的に変えていくことを、両方しないといけないから、今とても大変なんです。横浜創英で「こんな風にやればできるよ」ということを実現して、広めていければと考えています。

(塩瀬氏)
 学ぶということを、学校と先生が作りこみすぎているのではと思います。「主体的な学びとはなにか」という題の研修に呼ばれる機会が多いのですが、「主体的な学びって何でしょう?」って聞いてしまうのは主体的なのか?と思いませんか。「それ聞いた時点で主体的じゃないって問題を、まずはみんなで考えましょうよ」から研修をスタートする必要がある。
 甘栗を食べる時に、皿に「甘栗むいちゃいました」のようなはじめから剥いた栗を乗せているのが今の学校。それってやりすぎでは?と思うのです。大人が学びに必要なことを全部準備してしまう理由は「そのほうが授業がスムーズに進むから」「迷いやトラブルを起こさない」ためです。実はトラブルも学びの機会であり対話のチャンスなのに、そのチャンスを取り上げておいて、急に脈絡もなく「対話をしましょう」と言い出す。そして対話のために無理やり作ったアクティブでないアクティブラーニングを指さして、「活動あって学びなし」と断罪しようとする。小さなトラブルは本当に大事なんです。熟練技の研究をしている時の話ですが、たとえばガス管などの整備技術者にとって、今、ガス管破裂の事故対応の件数が減っているんです。ガス管の性能が上がり、管理技術も向上しているので、故障そのものが少ない。しかし故障件数が減ると、実は出動して対処する機会も減ることになるので、修理の腕を磨く機会が練習以外ではなくなる。その結果として、1回あたりの事故に対する故障対応の必要時間が増えて、結果として損害額が大きくなってしまうこともある。トラブルゼロを目指すことというのは、実は功罪両面があるのです。

問2)
心の教育が大切と言われてきた人たちに、「行動の教育が大切だよ」と言った時に、先生たちはどうでしたか?すんなり受け入れて変わってくれるものですか?

(工藤氏)
 そりゃ、先生方の心はデコボコします。失敗も起こる。やり方を間違えてクレームが来ることだってあり得る。でも失敗を繰り返しながらできるようになっていく。それは先生も同じです。子どもに幸せになってもらうためには、先生も幸せになってもらわないといけなくて。例えば、部活をすごくやりたい先生もいるし、それを周りにも求める人もいる。自分の生活を大切にしたい人もいる、もっと学業実績を上げたい人もいる。でも一番大切なのは「どんな子どもたちを育てないといけないんだっけ?」ですから、「今、必要なのは、自分の頭で考えられる子どもたちを育てることなんじゃないの?」で合意ができれば、部活の指導も、子どもたちが主体的で科学的な練習を自立的に考えられるようにしよう、と話ができるんです。先生たち自身が、自分の指導を変えていくプロセスが必要なんですが、どのタイミングでどれくらいのスピードでやるかは、現場でやっている先生に任せるしかない。それは先生の生き方を変えていくことでもあるから、教員も自分の頭で考えないといけない。そういう意味では、トップはすごく大事でしょうね。教員としては、ひとりでできることは限られているし、相当な戦略も必要になります。

問3)
先生の持っていないといけないスキルが変化しているのではないかと感じる。 ファシリテータースキルとか。どうやってつければよいのか。

(塩瀬氏)
 「主体的・対話的で深い学び」が求められる今、例えば対話が必要かと問われると、もちろん大切だけれども、すべての授業を変更する必要も当然ない。例えば、ある学校の生徒さんから質問をもらったことがあります。「歴史の話がすごく面白い先生がいるけれど、アクティブラーニングにしないといけないと言って、授業でいきなり『自分たちで考えて』というぎこちない変な空気が流れるだけで、その先生の面白い話がまったく聞けなくなってしまいました。アクティブラーニングって絶対にやらないといけないんですか?」って。これはおかしいですよね。元の話が面白い先生なら、それでよくないですか?生徒が学びさえしてくれれば、チョークアンドトークだろうが対話主導だろうが、どっちでもいいわけです。でもこれからはアクティブラーニングだから、講義はしてはいけないみたいに、ここも疑いなくそのままやろうとする。ICT導入も同じで、タブレットを無理やり渡されると45分間タブレットを使い続ける授業を想定するので、それは大変だからと、もうやめようとなってしまう。これって変ですよね。
  ファシリテーションという言葉も一人歩きをすると、同じ轍をふまないか心配になりますが、難しく考えないで欲しい。先生という存在は、知識も教え方の引き出しもいっぱいあって、それがあって全部授業を自分で決めがちですが、先生と生徒では面白いと思う順番が違うかもしれない。その場合に、相手に合わせて自分の引き出しから知識を出す順番を変えていくというのがファシリテーションだと思っていただけるとよいと思います。ただそれだけ。目の前の人が話したい事・知りたいこと・望むものを理解して、それに合わせて順番を変えるだけでいいんです。だから自分の中で、順番を変えてもいいものをいくつか決めておいて、その中でも「今日は伝わらなくても次に回せばいいや」っていうものを置いておく。今日、工藤先生のお話を聞いていて、待つって大事だなと思いました。究極のファシリテーションは相手をよく見ることで、自分の持ち駒を出し入れすることかなと思います。先生がファシリテーションしないといけないというのも一つの思い込みなので、授業や内容によっては、生徒にその役をやってもらうのもアリなはずです。30人にリーダーひとりとか、何百人にひとりとか、大勢の前に大きなリーダーをイメージしがちですが、3人のなかで最初に発話する人も立派にリーダーと考えることができるので、小さいリーダーをたくさん作ればよいと思う。リーダーシップをとらないといけない場面を小さく、するとファシリテーションも小さくていいので、結果的にその数も増えると思うので、接する機会が増えて結果としてみんな上達すると思いますよ。

最後に、対談してみて。

(工藤氏)
 日本の教育が変わらなきゃいけないのは社会上状況から見ても明白です。明治維新以降、100数十年の間だけが異常なんです。むしろここが良かったんじゃなくて、ものすごく人口が増加して経済的に豊かになっていった特殊な時代だっただけ。それを「日本の教育がよかったから」と勘違いしたのかもしれない。でも昔は学校教育ってそんなに重要視されていなかったのに、今、様々な社会問題が増えてきた時代に、学校教育が問題だ問題だという人が増えた。そしてそれに対して教員がますます頑張って対応して、頑張るほど主体的に考えなくて文句ばっかり言ってる子どもが育つという構図になっている。その文句しか言わない子供たちにさらにサービスして何とかしていこうとする数人の優れた先生がスーパーティーチャーになってしまった。むしろ教員たちが普通の人間として生徒たちと向き合っていくなかで生徒たちが育っていくという仕組みが大切なんです。そのために必要な本質って何なんだろうということが、やっと概念化されて議論されるようになりました。一気に日本中に広まっていく日は近いと思ってます。日本中に苦しんでいる先生たちがいるかもしれないけど、もう少し踏ん張って、みんなで教育の本質って何だろうって考えていきましょう。ありがとうございました。

(塩瀬氏)
 今日は、最上位目標そのものの話とかそこに至る過程のお話を聞けて、本当によかったです。また、これまでの教育論評では、先生や学校が責められすぎなのではないかとずっと思っていました。最近、人材にSDGsが大事だ、グローバルだ、プログラミングだと求めるけれど、全部セットでデキる大人なんて、いま一体どれだけいるんでしょうか。そのことを棚上げして、どうして学校でそれが全部教え込めると思うのでしょうか。ただただ教育という御旗の下に、学校にすべての責任を押し付けているだけに見えます。 航空機パイロットの事故対応において、一番大切なのは、事故を起こしたパイロットをいきなり責めないこと。それは事故現場という大変な場面で実際に起きたことを調査分析できなくなってしまうからです。一緒に解決するインフォーマント(情報提供者)になってもらわないといけない。鉄道会社も、事故の関係者を懲罰で対応するという旧来のやり方を改めて、航空機業界の方式を取り入れる動きなどもありますが、多くの人が学校で経験する問題の対処方式が懲罰方式から抜け切れていない。事故を起こした人を祭り上げて謝りなさいと言い、それで謝ったらそこで終わり。誰も解決しない。メディアでのつるし上げも同じような構図になっています。目的が「謝らせたい」であって、解決したい、二度と起こさないにはなっていない。 子どもたちが学びさえすれば、学校を通じて社会にワクワクを感じてさえくれれば、本当はどんな学校でも良いんじゃないですかね。社会での実践を共有できる場が増えてきたので、それらを取り込んで面白い取り組みをしている学校もたくさん出てきましたし、そういった新しいことにトライしている校長先生がたくさんいらっしゃることを知る機会が増えたので、「なぜそれをはじめたのか」、その”そもそも”を問うということをひとつ加えることができれば共有しやすくなるのではないかと思っています。ありがとうございました。

【スペシャルトークイベントを終えて~CareerMapLabo編集長 板倉真紀~】
世界が混とんとしている今、未来を担う人材をどのように育てていくべきなのか。ぜひみなさんと一緒に考えたくて、職業教育の枠から少々飛び出した今回のスペシャルトークを企画しました。教育界で注目されているお二人のご登壇が叶い、当日参加にアーカイブ視聴を加えると600名を超える方に視聴いただき、改めて関心の高さを実感しています。アンケートでは、77.9%の方に「とても満足」と回答いただき、「満足」と合わせると実に95.6%の方に納得いただけました。教育関係者のご参加が多く、「教育問題の本質を言語化してもらい、不明瞭だった部分がクリアになった」や「教育の未来について真剣に吟味されている先生方がいることが希望」といった声をたくさんいただいております。しかし最も大切なのは、これから私たち自身が「できること」を考え、実践していくことなのだと思います。工藤先生・塩瀬先生の挑戦されている姿には、やはり大きな影響力があります。お話を聞いたことをきっかけに、ひとりひとりが主体的に考え、実践していくことが、きっとこれから大きな変化のムーブメントを生みだす力になると信じています。

板倉 真紀

板倉 真紀Maki Itakura

株式会社グッドニュース
取締役 キャリアマップ編集長

株式会社リクルート入社、HR領域において、企業の採用課題を解決することから、採用のその先にある課題(インナーコミュニケーション領域)までを手掛ける。
業務としては、求人広告・企画商品の制作分野、求人メディアの編集企画が中心キャリア。
その後、事業会社の人事として、外資系ベンチャー立ち上げ・機械メーカーでの機電系人材・経営幹部人材の採用人事、製造業での総務人事部長。その後、キャリアマップ編集長へ。

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